超特急・考

スターダスト所属、非アイドルグループ「超特急」について偏った考察をします。

一ポリス新規から見た当時の超特急とその魅力

 
初現場

超特急の成り立ちやおおまかなメンバー構成は前エントリで触れたので、筆者が8号車になりたての頃、個人的にどう超特急を見ていたのかについて簡単に触れておきたい。
2013年初頭に向かった、彼らの3rdシングル「POLICEMEN」リリースイベントが筆者の初現場である。
もともとドルヲタでなかった自分は自身の酔狂さに呆れつつも、「完成されていない」そして「大人がつくった」悲哀のある少年たちの未知の世界に足を踏み入れることに、斜に構えた意味合いでの好奇心があったのだと思う。無為なことをする己を俯瞰して嘲笑するという悪癖が、自罰的な志向とマッチしてのスタートといえる。
ドルヲタをやったことのない自分が意を決して初現場を踏むためのハードルを下げた要因として、超特急の「シュールさ」が挙げられる。楽曲の世界観自体がどこか斜に構えたチープさとシュールさを持っているため、王道のキラキラアイドルにはまれない人間にも受け入れやすかった。またこれは初現場以降にわかることだが、楽曲の世界観はガチガチなのにライブやグループを全体でとらえると拍子抜けするほど余白が多く作り込みがなっていないことなどが、そのシュールさを助長していた。

 

初現場に話を戻そう。受験のためコーイチはイベント欠席、必死で地声を張り上げる苦しそうなタカシのボーカルと、ダンスの技巧レベルにばらつきのある少年たちが踊る姿にさらなるシュールさを感じつつ、冬の鈍色の景色と相まってなんとも言えない気持ちで全員握手(全握)に並んだ。寒風吹きすさぶ屋外イベントステージでペラペラの衣装のまま、血色の悪い顔で肩を縮こめながら一列に並んで震える彼らの様子はやけに痛々しく、余分なCDを買って接触を通し、彼らを「買う」ことへの罪悪感を掻き立てた。
この時期の接触は大変ゆるく、全握にも剥がしはいることにはいるが、十数秒から場合によっては数十秒の時間を取ってメンバーと喋ることができた。(4thのBloody Nightあたりからは全握の時間はより短くなったように思う)

初接触はとにかく早く終わりたい一心で、「応援してます」「がんばってください」を機械的に繰り返し、駆け抜けるような星になりたいよとばかりに逃げ切ったが、メンバーはみな顔を覗き込みながら「ありがとう。初めてですよね?また来てくれますか」などと紳士的な対応を見せてくれ、それが興味本位の申し訳なさに拍車をかけた。こういった類いの後ろ暗さも感情の動力源であることに違いはなく、彼らに惹かれていく動機付けとして充分すぎた。
特にこれで推しが決まるといったことはなかったが、初現場を経て彼らの未完成な部分といたいけないじらしさは覆されるどころか強く印象に残り、アイドルといったものに免疫のなかった自分に「次が見たい」と思わせるには充分だった。
また、接触がステージパフォーマンスの行き届かなさを補完するのではなく、行き届かなさや拙さが持つ「魅力」を強化したと感じられたのは、大きなポイントだった。列に並ぶヲタク全員に紳士的な対応をする中にも、特典会の始まりや終わりに大人の指示を仰ぐ所作や会話でのうろたえなど、彼らの未完成さや素の少年性が見え隠れしていた。この未熟さや未完成さを「魅力」と感じることについての悲喜こもごもはいずれ別項にて触れたい。

 

「放っておけない」

接触の話からはやや離れるが、この未完成さというのは決して彼らの生物的若さやパフォーマンスの技巧の未熟さだけから発せられていたものではない。
後に彼ら自身が過去を振り返りエビ本*1で「事務所にやらされていた」「部活の延長」といった旨の発言をしていることからも、ある一定の時期にまでちらついていた不安定さには、活動自体へのやる気の高低や志向の違いなどからの影響が多分にあったものと思われる。簡単に言えば、ライブにかける個々の熱量、特典会での態度、インタビュー等での超特急についての抱負を語るよりも先に出る「個人仕事をがんばりたい」旨の発言など、とにかく向いている方向がばらばらなのが伝わってきていた。
当時はダンサーにインカムもついておらず、またボーカルからマイクが渡されることもほとんどなかったため、MCのたびにコーイチとタカシの二人が微妙に噛み合ない話をして客席が気を利かせてややウケする、といったシーンが繰り返された。二人が喋っている間、時折頷いたりするメンバーはいたものの基本的にダンサーは会話に入ってくることがなく、茶々を入れたりガヤとしての笑いに参加することもほとんどなかったと記憶している。前述のエビ本での後の彼らの振り返りを読むに、彼らの仲間としての結束や気やすさが希薄だったためと思われる。
成長途上のグループの危うさはスリリングで、この時期くらいまでにファンになった者の多くはどこか保護的な視点を持っていた。それがおこがましく厚かましいおせっかいであることは否めないが、またそれを抱かせる状況であったことも同じく否めない。
古参からは、1stや2ndのあたりなどではメンバーがヲタクに「僕たちどうしたらいいんでしょう」などと活動上のアドバイスを求めていたなどと聞く。そして実際に、パフォーマンスのいろいろな面においてヲタクの発案が具体化されていった。超特急は良くも悪くも「放っておけない」グループだったのだ。


さて、彼らはいまやあの頃とは段違いの実力を身に付け、仲間内の結束やキャラクターの確立性も充分、言葉は良くないが商品価値を増してメディアにも多く進出し始めた。しかし、先述した危うさ、まさに「放っておけない」感じに惹かれて8号車となった一人である自分は、今の彼らがその場にいたとしたらドはまりはしなかっただろう。
筆者はこれまで消費対象としてのアイドルについて、どちらかといえばネガティブな見解を持っていた。
誤解なきように言っておくがこれはアイドルを否定するといった主旨のネガティブさではない。さらに、そのネガティブな見解について超特急がすべてを拭ってくれて、いまやなんの気兼ねもなくアイドル文化に小銭を投じられるようになったというわけでもない。次のエントリでは、自身が抱えているネガティブな印象がいったい何だったのか(何なのか)について触れてみたい。

 

*1:EBiDAN vol.1-2013年12月発行