超特急・考

スターダスト所属、非アイドルグループ「超特急」について偏った考察をします。

消費対象としてのアイドルの悲哀 1 〜未熟さを愛でるということの罪〜

 

本稿では一旦超特急から離れ、なぜ筆者が8号車になる以前からアイドル文化にネガティブな印象をいだいていたのか、またそのネガティブさの種類とはなんだったのかをつまびらかにしていきたい。
超特急がいくら声高に「非アイドル」をうたったとしても、実際の佇まいはアイドル然としていることに異論があるひとは多くないだろう。
「非アイドルとは何か」ということついて、8号車内でも議論が交わされることは少なくない。それについての筆者の回答は「非アイドル=メタアイドル」*1となるが、それはまた別の機会に譲る。
前置きが長くなったが、下にアイドル文化に感じていた(感じる)ネガティブさの要因を記す。


1.未熟さを愛でるということの罪

女子ドル戦国時代の最大手・AKBグループについてマスメディアで見聞きしない日はほとんどないと思うが、

togetter.com

 

以前、彼女たちの料理対決番組のPRと思われる広告展開にその魅力の打ち出し方の方向性をひしひしと感じられるものがあった。駅のスペースを使った大々的な展開で、AKBのメンバーが料理や調理器具とともに写った大きなポスターが貼られたり吊られたりしており、その大半が調理を失敗していたり困り顔をしているというものだった。
それは別に番組中の本当の困った顔や失敗風景を切り取ったものではない。わざわざポスター用に、正面を向いてかわいらしく困った顔を作ってみせて「失敗しちゃった」というような見せ方を選びとっているのである。結構な人数がフィーチャーされる中でほとんどが悪戦苦闘の様相を連想させる写真を使われていることに、アイドルというのは未熟さこそが歓迎され、応援したいと思わせることが重要事項の存在なのだと痛感した。


そもそもドルヲタは、アイドルたちが苦労を重ねて成長し、スターへと駆け上がっていくストーリーを共有することを醍醐味とする人種だ。そう言い切るのはやや軽卒かもしれないが、そういったきらいが大いにあるという点は否めない。だとしたら、なるほど未熟さや拙さは「応援したい」というヲタクの欲求をダイレクトに引き出すものとなる。アイドルを応援する醍醐味はアイドルたちの成長の歴史をヲタクたちが自身の「ヲタ活(ヲタク活動)」の中で体験的に共有するものであるから、未熟さを売りにしているアイドルほど伸び代があり応援のしがいもあるのだ。
また、潤沢にマーケティング費用を捻出できておりすでに商業的に成功しているグループは別だが、地下ドル現場〜ブレイク未満くらいのアイドルたちは個人の成長とは別に「成功=売れていく」ストーリーをより大きな目標として提供している。その意味でアイドル個々人の成長は裏テーマ、もしくはグループの成功ストーリーに必ず付随するエピソードにすぎないが、「推しメン」を決めてグループを応援するヲタクにとっては非常に重く高い価値を持つことを付け加えておく。

 

さて、未完成なものを愛で、その成長と成功を応援するという自然に見える流れは当たり前のようだがジレンマを生む。ヲタクが未熟で未完成なものを愛で、応援している一方、アイドルたちは普通の生活を営む10代などとは比べ物にならないスピードで成長し、成熟していく。若さや新鮮みは肉体的なそれ以上に早く消耗していくことだろう。
アイドルの成長や成功がヲタクの応援の大義名分であり、目指す方向であるにも関わらず、ヲタクは発展途上の伸びしろに熱を注いでいたいものなのでアイドルが成長・成功しきったあとにはそれまでと同じ熱量で追っていくことは難しくなる。
成長して、成功してほしい。だけどこのままでいてほしい。子の独り立ちを願いつつも、喪失感からどこか無意識的に(あるいは意識的に)それを妨げたい欲求を持つ親のようである。
ヲタクの大義名分がアイドルの応援である限り、「遠くに行かないでくれ」「売れるのがさみしい」というおそらくは非常に普遍的な(それゆえに子供っぽい)嘆きはおおっぴらには禁忌となる。芸能界に限らず、ビジネスの世界では需要のないものは消えてしまうものなのだからこの辺りの危機意識はアイドル側にとってより一層切実である。

 

【一年経つごとにでんぱ組の存在がどんどん遠くなっていって嫌いになってしまいそう。好きだけど遠すぎるのは悲しい。どうすればいいかな】

嫌いになって それできみが楽なら それでいいと思うよ。
売れなければ近くにいたのに なんて思わないでね。
売れなければ 消える。それだけだよ
遠い ではなく 居なくなる だよ

ぼくは前から言ってるけれど
近くに居たいから たくさんお仕事できるようにがんばろうって いまこうして活動してるよ。
それが遠いと感じて 悲しくなるくらいなら
あなたから こちらを消せばいいと思うんだ。
その方がきっと "楽"だよ。

ばっしばっし!!|でんぱ組.inc最上もがオフィシャルブログ「もがたんぺぺぺ」Powered by Ameba

 

話を戻そう。本稿の要旨は筆者が感じてきた「アイドル文化へのネガティブな思いはどんな要因からなるものか」である。
これまでに述べてきたように、未熟さを愛でながら応援するということは常にその対象に「未熟なままであってほしい」という、呪詛のような欲求を持つことと非常に近しいものがある。これらはアイドルの応援という大義名分に熱狂している間は表層意識に上がりにくく、またそれを表明することは限りなく抑圧されるため目を背けられがちだが、理性とは別のレベルで一般的なヲタクに少なからず働く感情だろう。
「未熟なままでいてほしい」(時にこれは「成功しすぎないでほしい」と重なるケースもある)という欲求は気付かぬうちに内面化され、もちろんその見えないコンセンサスを汲み取ったヲタクに届きやすいマーケティングはさらにそれを強化する。飛ぶように成長していく少年少女は、非言語メッセージによってどこかしらその制約を受けることになる。そしてそれは、特に女子ドルにおいて世のジェンダー的抑圧も相まって強い負担を強いることになる。またよく48グループで言われるように、アイドルに向けられるさまざまな理想の内面化が市井の女子にも適用されることにもなるだろう。特にドルヲタではなかった当時の筆者は、これについてフェミニズム的観点から腹立たしさに近い違和感を持ったのだ。(ジェンダー的抑圧の男女の負荷のバランスが均衡を取っていれば、それはフェミニズム的観点からの憤りではなくあくまで人間の権利を考える上での違和感になるだろう)

アイドル文化にあってよく聞く特徴的な言葉の一つが「消費する」である。ヲタ活はアイドルを消費することで成り立つ。この消費が意味するところは何なのか、非常に漠たるものなのだが、アイドルが駆け抜けるように成長する歴史を、責任から逃れた場所である意味身勝手に享受する意味が込められているのではないかと思う。純粋な「応援」だけでは表しづらいのがヲタ活だ。これがアイドルの未熟さに喜びを見出しがちなヲタクに付いて回る後ろ暗さの要因の一つだろう。
こそばゆいことを言うようだが、人間は本来、誰しも学び、体験し、成長していくものであり、その自由と権利は不可侵である。これに逆行する欲求とその供給が、48グループのような巨大なメディア力を持つアイドルにもヲタクにも、そして結果としてその影響力の大きさから市井の人々にも内面化されることについて自分は憤りを得たのだろうと思う。
しかし、前エントリで触れたように筆者自身もその未熟さや未完成さをフックに8号車になった一人である。本稿でさんざん述べてきた未熟さがもたらすさまざまな事象について、批判したいわけでもなければそもそもとやかく言える立場ではない。しかし、考えを変えたわけでもない。あくまで稚拙ではあるが考察のための素材を引き続き並べてみたいと思う。

 

 「消費対象としてのアイドルの悲哀 1 〜未熟さを愛でるということの罪〜」 了 

 

 

*1:筆者による造語