超特急・考

スターダスト所属、非アイドルグループ「超特急」について偏った考察をします。

消費対象としてのアイドルの悲哀 2 〜アイドルを包囲する暴力性〜

 

過去、筆者がドルヲタになる前から感じており、かつ今現在も払拭しきれないでいるアイドル文化へのネガティブ要素について考察していく。本稿は下記リンク先エントリの続きである。

消費対象としてのアイドルの悲哀 1 〜未熟さを愛でるということの罪〜 - 超特急・考

 

2.アイドルを包囲する暴力性

 前稿ではドルヲタというものがアイドルの成功ストーリーを体験的に共有することを楽しむ人種であることから、アイドルの伸び代でもある「未熟さ」や「未完成さ」を愛でる傾向があることについて論じた。特に世のジェンダー的抑圧傾向とあいまって、それが女子ドルともなると未熟さから繋がる幼さ(少女性)や処女性ももちろん指示されるための大きな要因となっており、概ね成熟と相反する要素こそが人気を獲得するための条件とも考えられる。

〜恋愛スキャンダルはなぜこれほどの反感を買うのか〜

これらにもっとも極端に背く行為として、わかりやすいのが恋愛スキャンダルだろう。アイドル文化に身を置けばわかることだが、アイドルに真剣に恋する「ガチ恋」ヲタのみが恋愛発覚にショックを受けるわけではない。アイドルの消費の仕方は通常のヲタクから腐女子を始めとするコンテンツ消費型、さらにはガチ恋までさまざまであるが、たいていのヲタクはアイドルの恋愛スキャンダルを喜ばない。
ヲタクにもさまざまな種類がいるのでその理由を一様に挙げることは難しいが、大きなものの一つに、ヲタクがそもそも上述のように「成功途上の少年少女」を消費しているので、その対象が知らぬうちにそのストーリーのノイズとなる「成熟した行為」に興じることに堪え難いためというものがあるだろう。と同時に、ヲタクは自らがアイドルとの間で共有していたはずのストーリーから疎外されたように感じることになる。筆者はこの「共有すべきストーリーからの疎外」がもっともヲタクに冷水を浴びせるものなのではないかと考えている。つまり恋愛スキャンダルは、ヲタクがドルに望む「未成熟さ」と「ストーリーの共有」の二本柱を一挙に裏切る行為となり得るのだ。

〜暴力の本質とその及ぶ範囲〜

アイドル(特に女子ドル)の身体性や精神性が幾重にもわたる真綿で拘束されていることに敏感な者はフェミニストならずとも少なくない。その暴力性は恋愛スキャンダル発覚時の処罰に分かりやすく表出するが、それははもっとも分かりやすく具現化したケースであって常日頃から彼女らの存在を包囲している。
なぜそのような力が幅を利かせるのかと問われれば、アイドル業が商売でありそれにお金を払う側のヲタクがアイドルの精神と身体のある種の拘束を望むからである。もちろん、メンバーも人間なのだから恋愛くらいすることはヲタクの側でも暗黙に了解しているはずだが、金の代わりにヲタクが得るのは前段で扱ったとおり「(アイドルとの)成功ストーリーの共有」であるため、どのアイドル現場でも恋愛は自分らの知らないところでひっそりやっててくれといった向きがある。

 

恋愛が発覚したとしても、たいていのヲタクはアイドルとの間に演出されたストーリーや共通のゲームシステム内での制裁(例えばリーダー交代やグループでの左遷)を望むことはあっても、おそらくそれを超えた人権の蹂躙を制裁とすることには違和感を持つことが多いと思う。しかし、一部アイドル運営はその制裁の方向性を成功ストーリーやゲームの舞台から逸脱するほど過激なショーに純化し、可視化したものを批判覚悟で提供しているーーと言いたいが、ここに来て恋愛禁止の処罰は不可視かされ、かつ恋愛禁止は内面化を強化されているようにも見えなくない。*1しかし、少なくともある一定のフェーズまでは処罰を過激に可視化「していた」といえるだろう。

 

もちろん、その顕著な事例は48グループ某メンバーの丸刈り事件だ。別グループへの左遷などといったある種の降格人事は、あくまで運営によって用意された「アイドルを楽しむ装置」内での演出だ。そこにももちろんその箱庭内での暴力は働くが、それ以上にアイドルが身体性をもって罪を贖うというもっとも分かりやすい形の制裁は、当時相当なショックをもって世間に受け止められた。あれだけの批判があったのは、運営が作った「アイドルとヲタクの成功ストーリー」といった箱庭を暴力性が逸脱し、アイドルの生身の人間としての最低限の権利(身体性の保持)にまで及んだためであろう。

 

これは単純に「自発的に丸刈りにしたのなら問題ない」とか「やらせだからいい」といった話ではない。暴力の本質は丸刈りといった処罰以前のところにあるからだ。結果的に制裁のショーアップが復帰の足がかりになったとしても、またそれが狙って実行されたものであったとしても、強大な力によって押し付けられた暴力を利用するか、それともその世界を去るかを選ぶしかなくなること自体がそもそもの暴力性の根源なのだ。

もっと言えば、ヲタクがアイドルとの閉鎖的な物語の共有を望む以上、程度の差はあれアイドルに恋愛制限は付き物だが、それ自体にさえやんわりとした暴力性の萌芽*2があることになる。
どうしたって存在してしまう暴力性をせめて発動させないスタンスの落とし所としては、「恋愛してもいい」としてアイドルの精神と身体の拘束は望まず、「でも隠してね」と自らが享受すべきアイドルとの間のストーリーは守る、といったところだろうか。

 

さて非アイドルについてだが、その実質は基本的にアイドルであり、カノバレNGなのは明白だ。3号車リョウガが「ラブライブ!*3にはまっていることをブログで公開したあとに発生した「ラブライブ他界」*4は、8号車の恋愛スキャンダルへの耐性のなさを物語っている。*5
彼らの精神と身体の拘束が「ヲタクと共有すべきストーリー」の中に組み入れられていることについては他のアイドル同様に悲哀を感じさせるが、彼らの成功とともにこのバランスが変わっていくことを願う。

 

消費対象としてのアイドルの悲哀 2 〜アイドルを包囲する暴力性〜 了

 

*1:もちろん48グループのKさんと男子ドル事務所最大手所属のTさんのスキャンダルの処遇について

*2:ここでは、恋愛をしないでほしいと望むことによる精神の拘束など

*3:ラブライブ! - Wikipedia

*4:ラブライブ!のキャラクター「のんたん」にはまったリョウガのブログコメントに、「大好きだったよ。さようなら」などの他界宣言が散見された事件

*5:だめだ書きながら笑ってしまうな