超特急「Beautiful Chaser」MV〜七つの大罪についての考察〜
まだ記憶に新しいトピックだが、超特急10thシングル「Beautiful Chaser」(9/9発売)のMVが去る7/28に公開された。
フジテレビドラマ「探偵の探偵」の主題歌とあって、ドラマの内容同様重さのあるダークなナンバーだ。ももクロ姐さんよろしく「feat. マーティ・フリードマン」はどうしても通過せねばならない儀式らしく、今作の至るところでマーティのこってりしたギターが鳴り響いている。
冒頭からいきなりの余談だが、筆者はこれがハードロックなのかヘヴィメタルなのかの分類に悩みさんざんネットを巡回したところ、「曲中ギターリフが鳴りっぱなしならヘヴィメタルでいいよもう!」という痛快な論旨を目にしたので、咽び泣くエレキギターを評して立派なヘヴィメタルということで決着させたい。*1
さて、今回のMVはキリスト教に付随する宗教的概念「七つの大罪」*2をそれぞれ超特急メンバーが表現しているとの触れ込みで、公開時には8号車内に「どの罪をどのメンバーが演じているのか」についての考察が溢れた。
本ブログでも個人の見解を述べておきたい。
MVの構成、雰囲気
本作のダンスは特に序盤においてボーカルをストーリーテラー的に両端に配置し、中央でダンサーが繰り広げる物語が展開されるという、全体的にミュージカルのような雰囲気の仕上がりになっている。ドラマ主題歌ということを勘案した、えんどぅ*3氏による粋な計らいといったところだろう。
全体のダークな雰囲気を重視しているためか物理的にもかなりダークな映像が続く。そのためメンバーの顔やダンスは非常に見づらく、「これで新規がつかめるだろうか…」と胸をざわつかせた8号車も少なくないだろう。
では、下記に各メンバーが担当したのではと思われる罪を記す。
1号車コーイチ→傲慢
MV中のコーイチはソロで抜かれる際に"Take your sin, Take your end"と書かれた本を手にしている。罪を認めて終わりを受け入れろ(観念しろ)という意味合いのフレーズであり、本作のテーマであるともいえる。黙示録を持って全体のストーリーをリードするのが彼であり、元天使長でありながら天界の天使たちの3分の1を率いて反旗を翻したルシファー的ともいえる役割を担う。このルシファーの対応する罪源が「傲慢」なのである。
なお、キリスト教異端思想のグノーシス主義においてルシファーは人間に智恵を与えた善の存在*4とされる。そのため、本が智恵(を与えし者)=ルシファーを表す小道具として使用されている可能性もある。
2号車カイ→色欲
特に論ずることもないのだが、メンバー随一の美肌を悩ましくまさぐるその様子から。
さて一行で終わるのもなんなので思いっきり脱線。
彼のブログには「ニキビできちゃった」などの文言が散見されるが、毎度上がっている自撮りで目を皿のようにして確認できるのは針の先でつついた程度のかわいらしいもの。比較的肌荒れの目立つ両端の1&3号車の並びにあって、いつもつるつるぴかぴかもちもちと一際輝いている。*5
3号車リョウガ→嫉妬
果たされない欲望から生まれる悪性の嫉妬は基本的には人間の内面に押しとどめられ、それを抱く本人は嫉妬心を直視したがらないことが多い。嫉妬を抱いていることを認めたら、自らの果たされない欲望を叶えている他者が自分よりも高みにいることを認めることになり、さらなる屈辱を被るためである。また、一般的に「嫉妬するのは恥ずかしい(卑しい)こと」という風潮は怒りや悲しみに比べて強く、これも嫉妬が隠ぺいされがちな大きな原因だろう。
MV内でベールを被っているリョウガは、さまざまな段階で白日のもとにさらけ出すことが憚られ、ひっそりと隠匿しておきたい嫉妬を表現していると思われる。*6
4号車タクヤ→強欲
タクヤはMV中、モニターの向こうから美しい手のひらをこちらに伸ばしてくる。何かをつかもうとする所作からは「もっと、もっと」という意味合いが連想されるため、これを強欲とした。個人的には欲にまみれた表情で薄ら暗く笑ってほしかったなどと思う。
5号車ユーキ→憤怒
小道具や小細工が本作のユーキには必要ないことを、MVを見た皆さんならば納得されているものと思う。ソロで咆哮するシーンはあるものの、演技に頼らずとも彼の激しいダンスと復讐に燃えるかのような表情は見事に怒りの感情を表現しきっている。卓越したダンスパフォーマンスの実力が買われてのダンス一本勝負なのだろう。
6号車ユースケ→暴食
ほとんど空っぽの瓶を何度も振っては最後の一滴を飲み込み、さらには唇を拭う様から。確かに彼は超特急一の倹約家ではあるが、けして貧乏の表現ではない。
ユースケがその美しい顔立ちをきりりとさせ、なまめかしく指で唇をなぞる際におそらく「もっと欲しい…」という副音声が聞こえたことと思う。え、聞こえませんでしたか? お宅のyoutubeおかしいと思います。
7号車タカシ→怠惰
何をするでもなくただ物憂げに椅子にもたれかかる様から。細かくは、MV序盤ではぼんやりと立っているもののそのあと座り、また終盤にだるそうに立ち尽くしている。美しいひとは気だるそうにしているだけで絵になりますね。
七つの大罪のどれにどのメンバーが相当する演技をしているのか、という本論については以上である。
以下、あくまで余談として記しておく。
補足・その他 ダンスについて
先に触れたように「Beautiful Chaser」の振り付けはおなじみのえんどぅ先生である。
このオープニングのフォーメーションが「INFINITE」の楽曲「Destiny」(2013年リリース)のそれに似ている、という指摘を友人より聞いた。
【HD繁中字】130719 INFINITE - Destiny @ Comeback Stage
ボーカル以外の配置、ポーズはほぼ同じといってもいい。
同じくえんどぅ氏振り付けの「POLICEMEN」では、INFINITEのサソリダンス *7をそのまま取り入れたとみられる箇所がある。
(2:15あたりよりサソリダンス)
(0:48あたりよりサソリダンスを取り入れたと思われる箇所)
二年ほど前にINFINITEファンから叩かれ検証動画を作られていたのを見たことがあるが、あくまで好意的に見ればダンスの振りをそのまま取り入れることについては「オマージュ」の意図があるようにも思える。超特急は初期の頃には「韓流リスペクト」を掲げており、なおかつサソリダンスを隠そうとする気も改変する気も見えてこないからだ。
しかし、いまや超特急からは韓流リスペクト色は大幅に薄れており、また今回の「Beautiful Chaser」のオープニングのフォーメーションと似ていると指摘されたver.はMVとして公開されたものではない*8とのことで、オマージュとして捉えるにはパロディされる側であるオリジナルの振りが一般的でなく、広く認知されているとは言い難い。
ひょう窃かオマージュかは昔から難しい問題である。ここではあくまで似ているとの指摘があった旨の報告に留めたい。*9
了
*1:させてどうする
*2:これそのものが罪なのではなく、人を罪に導く可能性のある欲望や感情とのこと
*4:いぶかしがる方は皆無かと思うが、一応本論で触れた「善の存在」としてのルシファーについて補足を。あくまでグノーシス主義が異端思想である点を忘れてはならない。この価値観が部分的にMVに持ち込まれたとしても、MV全体の世界観は正当の宗教観から成る(グノーシス主義の「七つの大罪」には、本作で6号車ユースケが担当したと思われる「暴食」が出てこない)ためにルシファーはあくまで悪の存在である。よって、このMV上で「コーイチだけは善」というような論考は成り立たない。
*5:うらやましいですよね
*6:あと、やたらセクシーである。困った。
*7:シンクロ率99.9%? 逆回転スロー映像? 韓国グループ Infinite | これってちょっと良さげかな~♪ ぷちブログ
*8:公開されているMVにはVersion AとBがあり、本稿に掲載した動画で採用されているオープニングとは異なる
*9:が、超特急を愛するがゆえに一言言わせてもらえるならば、周りの大人には本当に本当に細心の注意を払って彼らの仕事に関わっていってほしいと願うばかりである
超特急「Beautiful Chaser」Music Short Film 〜雑感と死の尊さについてのちょっとした考察〜
先般、「美しい死」をテーマに若手映画監督・内藤瑛亮氏がメガホンを取った超特急「Beautiful Chaser」のショートフィルムが公開された。内容の過激さから地上波放送については自主規制を設けたとのことで公開前からメンバーや周辺スタッフが期待を煽りに煽ったが、個人的感想をいえば「肩すかしを喰らった」といった感じだった。
「ループ説」をはじめとした考察が出ているようだが、ここでそういった説の検証とともに個人的雑感を記したい。
悪いけど舐めんな
「映画情報どっとこむ」*1を鵜呑みにすれば、内藤監督は「ファンが怒っても良いとのことだったので、限界まで挑戦しました」「ファンの方が怒るんじゃないかとドキドキしています。この間のライブでユースケが足をつっただけでファンが悲鳴を上げたって記事を読んで青ざめました」とのことだが、ヲタク的に言えばメンバーがどんな風に扱われようとそこに作品上の必然性があってクォリティの高いものであるならば怒ったりしない。むしろどんなに過激に調理されたとしても出来上がるものが胸を打てば、それを芸術として理解ようと努力するし、心から賞賛したいと思う。
つまり、今作のテーマが「美しい死」であることや、それに応じてメンバーがどんどん死ぬことなどについてはそれでかまわない。たしかにシリアス一辺倒な作品にメンバーが出演することはほとんどなかったため、むしろどんな形でも別の顔や別の表現を見られることはヲタク心にも大変ありがたい。なので、監督がメンバーを殺すことで「怒られるかも」と心配している件についてはその方向性に誤りがある。安心せよ。ヲタクはアホだがそこまで愚鈍ではない。悪いけど舐めんな、である。
が、作品にそのクォリティが認められない場合、話は別だ。俺らのかわいい推しちゃんをなぶり殺すに足るそれなりの理由がほしいじゃないですか…とはヲタクの偏愛が過ぎるとしても、単純にあれだけ煽られたのだし作品としての良し悪しについては言及したい。死という重いテーマを扱う作品ならばなおのことである。
その意味で「Beautiful Chaser」Music Short Filmをどう好意的に見ても、深い感銘を受けるといったところまで入り込めなかった。先のサイトからの内容説明は以下の通り。
ある寂れた探偵事務所。7人の探偵は、仕事も来ない日々にだらけた毎日を過ごしていた。そんな探偵事務所にある日、傷だらけの少女が駆け込んでくる。
少女を介抱する 7人。
なかなか心を開かない少女であったが、7人と過ごすうちに少しずつ打ち解けていく。そんな折、探偵事務所の周りをうろつく黒いワゴン車と、謎の男達。おびえる少女。少女は、ある組織に家族を皆殺しにされ、彼女自身も追われる身だったのだ。彼女を逃がす計画を立てる 7人。それを決行するまさにその日、探偵事務所は謎の男達に襲撃されるのであった。
少女を守るために立ち向かう 7人。そして・・・
そのあとの内容について簡単に書いておきたい。少女を逃すために高飛びしようと石原軍団*2みたいな服に着替えた超特急の面々だったが、解りやすい格好をした悪の組織に乗り込まれ格闘開始。無敵の悪役にメンバーは一人一人と殺されていき、少女もその手に渡ってしまう。2号車カイが最後まで彼らを追うが、少女は(おそらく)殺され、激昂したカイによって悪役も殺され、負傷の大きかったカイも死ぬ。光に包まれながら眠るように死んでいく(?)カイを最後にモノクロのエンドロール(撮影シーンの静止画入り)が流れ、超特急のメロウ系代表曲「FLASH BACK」がかかる……完。
とにかく全員死ぬのである。おわかりいただけただろうか、ていうかそれさえわかれば完全についてこられている。つまりこの通り、「とにかく全員死ぬ」というところ以外になんのテーマも話も関係性も見えなかったことにも「肩すかし」を感じたのだった。
ループ説の否定
このフィルムの重要人物は少女と2号車カイだ。その二人が織りなす心のほのかな交流と、それが急に降ってわいた悪夢のような暴力によって引き裂かれ、死という終わりを迎えることに焦点が当たる。PR側からの煽りの割にはあまりにもストレートにメンバーが殺されて終わりといった単純さのせいか、8号車ツイッター界隈では小規模ながらも考察談議がなされる一幕もあった。まだ超特急がコンテンツとして成熟していないこともあって、8号車界隈には考察厨は少ない。考察(深読み)文化が育たない中でこのような動きがあったことは個人的には喜ばしいのだが、特に自身としては肩入れしたいものはなかった。
考察の中である程度話題を集めたのは「2号車カイだけが同じ時間をループ(やり直し)して、少女を救おうとしているのではないか」というものである。2011年に放映されたアニメ「魔法少女まどか☆マギカ」*3で昨今流行した概念だ。
ループに限らずさまざまな考察のフックとなっているのが、フィルム冒頭にフィーチャーされる一枚の写真である。ぐーぐー寝ている超特急がいる部屋に、彼らの少年時代と思しき写真が飾ってあり、その真ん中には件の少女(超特急がいる部屋に傷だらけで駆け込んでくるときの姿のまま)が写っている…というもので、確かに物語性を感じさせるシーンではある。が、改めて考えるとループ説を推すなら、彼女が少年時代の超特急と一緒に遊んでいた頃の姿のまま現れる必要性はない。超特急と同じ年代の姿で現れてもいいはずだし、あえて幼い少女の姿で現れたのならそれはループというよりタイムトラベルものだ。
たしかにループ説については、冒頭でカイが一人だけ眠りから目覚めて立ち上がるシーンなど「ここはどこだ?」感のある演技をしているような気がしなくもないし、ループ一回目ならばカイにも自らがループしている自覚がそこまでないために、自分の居場所を確かめるかのごとく周囲を見回して歩き出すようなことも自然なのかもしれない。しかし、ループ説については別の角度から否定したい。というか、否定させてくれよと思う。
死が美しいのはその一回性ゆえ
本作のテーマは「美しい死」であるという。ならば、死の一回性の尊さを抜きにして何度でも再現可能なループによる死をわざわざ描くことはないのではないか。あんだけばっさばさ惜しげもなくメンバーが死ぬのだから、ここまで死が一回性の貴重さを保持されずに簡単に殺されるだけの理由がほしくなるのはわかる。が、それだとわざわざ「美しい」と銘打ってテーマにするほどの価値は、死から剥奪されてしまう。あくまで一回性の死を描いた作品であると思いたい。*4
さてループ説とは別に「美しい死」を感じられたかについてだが、残念ながらといったところで、これが「肩すかし」の主要因である。超特急メンバー間や少女との関係性が希薄なために、本来ならばめちゃくちゃ悲しいはずの若者の死についての悲哀を感じることができなかった。そのために、ばたばた死んでいくメンバーを見ながら頭に浮かんだのは「美しい死」というよりも「死の安売り」だった。
死が美しいのはその一回性とともに、生が貴重で美しいものだからだ。美しく貴重な生を投げ打つ若者の非業の死は美しいはずだが、その生のストーリーの描写が不十分だったためにどうしても鑑賞後の肩すかし感が拭えなかったのだと思う。
このあたり、本来超特急は陰キャラ揃い*5なので、いくらでも文学性を背負えそうなものなのに残念である。個人的に超特急の映像作品の今のところの頂点はウルトラ超特急名義での「Starlight」のMVだ。
説明くさいところは皆無なのに、彼らのキャラクターと関係性がこんなにも描かれている…!と感動したものだ。なお、監督の福居英晃氏は超特急でのMV監督起用回数最多であるが、個人的にあの物語調なのをもう一度…!エビナイのヲタクの話*6なんかじゃなくて超特急でもう一度…!と願ってやまない。
評価したい点と少女=メタファ説
といっても、新進気鋭の若手監督がメガホンをとってくれたことにヲタクとしては感謝したい。ものづくりはたくさんの制約がある中で行われるし、また産みの苦しみは想像を絶する。その過程を思えば一方的に作品を享受して責任のないところでこき下ろすことは悪趣味であるとも思う。
メンバーの新たな面を引き出すシリアスでスピード感溢れる展開、スリリングな格闘シーンに着目したカットなど、映像としては記憶に残るものだった。またメンバー個々の演技力を引き出すにあたっても、監督の力量によるところは大きいものだろう。特に、これまで役者としてのキャリアを持つ4号車タクヤの死の演技は真に迫っており、その美貌を惜しげもなく手放すかのような悲惨な表情はかえっていつにもまして美しかった。
そう、メンバーの演技はそれぞれ非常によかったと思う。見せ場の多い2号車カイはいわずもがな、1号車コーイチの6号車ユースケが殺されたことに動揺するときの小物演技もよかったし、3号車リョウガのスマートな格闘シーンは素直にかっこよかった。また5号車ユーキの攻撃シーンは若干狂気じみていて個人的なお気に入りだ。
さて、蛇足ながらループでないのなら一体あのフィルムに隠された物語はなんだったのだろう。成長しない幼いままの少女は、超特急が大人になるにつれて失った「何か目に見えないもの」のメタファだとするのはどうだろうか。*7「何か」を置き去りにして大人になった超特急のもとに、いまにも抹消されそうな「何か」が助けを求めてやってくる。彼らは童心に返ってその「何か」とともにあろうとし、守ろうとするが、無残にも強大な力の前に死という形で伏すことになる…。
その「何か」が若さとかそれに付随する純粋さとかで、追っ手が消費を担う我々ヲタクやショービズのシステムとかだったとしたら最高にシニカルでいいな!!あとそういう死はたしかに悲しいし美しいな!!と興奮しつつ…お付き合いありがとうございました。
了
*1:http://eigajoho.com/?p=31009
*2:炊き出しで有名。
*4:けどそれが違ったらこれものすごい皮肉になってしまいますね
*5:褒めてますからね
*6:超特急「EBiDAY EBiNAI」MUSIC VIDEO - YouTube
*7:けどまあ、そうすると「映画情報どっとこむ」にある少女の「ある組織に家族を皆殺しにされ」という裏設定は必要なくなるんですけどね…
消費対象としてのアイドルの悲哀 2 〜アイドルを包囲する暴力性〜
過去、筆者がドルヲタになる前から感じており、かつ今現在も払拭しきれないでいるアイドル文化へのネガティブ要素について考察していく。本稿は下記リンク先エントリの続きである。
消費対象としてのアイドルの悲哀 1 〜未熟さを愛でるということの罪〜 - 超特急・考
2.アイドルを包囲する暴力性
前稿ではドルヲタというものがアイドルの成功ストーリーを体験的に共有することを楽しむ人種であることから、アイドルの伸び代でもある「未熟さ」や「未完成さ」を愛でる傾向があることについて論じた。特に世のジェンダー的抑圧傾向とあいまって、それが女子ドルともなると未熟さから繋がる幼さ(少女性)や処女性ももちろん指示されるための大きな要因となっており、概ね成熟と相反する要素こそが人気を獲得するための条件とも考えられる。
〜恋愛スキャンダルはなぜこれほどの反感を買うのか〜
これらにもっとも極端に背く行為として、わかりやすいのが恋愛スキャンダルだろう。アイドル文化に身を置けばわかることだが、アイドルに真剣に恋する「ガチ恋」ヲタのみが恋愛発覚にショックを受けるわけではない。アイドルの消費の仕方は通常のヲタクから腐女子を始めとするコンテンツ消費型、さらにはガチ恋までさまざまであるが、たいていのヲタクはアイドルの恋愛スキャンダルを喜ばない。
ヲタクにもさまざまな種類がいるのでその理由を一様に挙げることは難しいが、大きなものの一つに、ヲタクがそもそも上述のように「成功途上の少年少女」を消費しているので、その対象が知らぬうちにそのストーリーのノイズとなる「成熟した行為」に興じることに堪え難いためというものがあるだろう。と同時に、ヲタクは自らがアイドルとの間で共有していたはずのストーリーから疎外されたように感じることになる。筆者はこの「共有すべきストーリーからの疎外」がもっともヲタクに冷水を浴びせるものなのではないかと考えている。つまり恋愛スキャンダルは、ヲタクがドルに望む「未成熟さ」と「ストーリーの共有」の二本柱を一挙に裏切る行為となり得るのだ。
〜暴力の本質とその及ぶ範囲〜
アイドル(特に女子ドル)の身体性や精神性が幾重にもわたる真綿で拘束されていることに敏感な者はフェミニストならずとも少なくない。その暴力性は恋愛スキャンダル発覚時の処罰に分かりやすく表出するが、それははもっとも分かりやすく具現化したケースであって常日頃から彼女らの存在を包囲している。
なぜそのような力が幅を利かせるのかと問われれば、アイドル業が商売でありそれにお金を払う側のヲタクがアイドルの精神と身体のある種の拘束を望むからである。もちろん、メンバーも人間なのだから恋愛くらいすることはヲタクの側でも暗黙に了解しているはずだが、金の代わりにヲタクが得るのは前段で扱ったとおり「(アイドルとの)成功ストーリーの共有」であるため、どのアイドル現場でも恋愛は自分らの知らないところでひっそりやっててくれといった向きがある。
恋愛が発覚したとしても、たいていのヲタクはアイドルとの間に演出されたストーリーや共通のゲームシステム内での制裁(例えばリーダー交代やグループでの左遷)を望むことはあっても、おそらくそれを超えた人権の蹂躙を制裁とすることには違和感を持つことが多いと思う。しかし、一部アイドル運営はその制裁の方向性を成功ストーリーやゲームの舞台から逸脱するほど過激なショーに純化し、可視化したものを批判覚悟で提供しているーーと言いたいが、ここに来て恋愛禁止の処罰は不可視かされ、かつ恋愛禁止は内面化を強化されているようにも見えなくない。*1しかし、少なくともある一定のフェーズまでは処罰を過激に可視化「していた」といえるだろう。
もちろん、その顕著な事例は48グループ某メンバーの丸刈り事件だ。別グループへの左遷などといったある種の降格人事は、あくまで運営によって用意された「アイドルを楽しむ装置」内での演出だ。そこにももちろんその箱庭内での暴力は働くが、それ以上にアイドルが身体性をもって罪を贖うというもっとも分かりやすい形の制裁は、当時相当なショックをもって世間に受け止められた。あれだけの批判があったのは、運営が作った「アイドルとヲタクの成功ストーリー」といった箱庭を暴力性が逸脱し、アイドルの生身の人間としての最低限の権利(身体性の保持)にまで及んだためであろう。
これは単純に「自発的に丸刈りにしたのなら問題ない」とか「やらせだからいい」といった話ではない。暴力の本質は丸刈りといった処罰以前のところにあるからだ。結果的に制裁のショーアップが復帰の足がかりになったとしても、またそれが狙って実行されたものであったとしても、強大な力によって押し付けられた暴力を利用するか、それともその世界を去るかを選ぶしかなくなること自体がそもそもの暴力性の根源なのだ。
もっと言えば、ヲタクがアイドルとの閉鎖的な物語の共有を望む以上、程度の差はあれアイドルに恋愛制限は付き物だが、それ自体にさえやんわりとした暴力性の萌芽*2があることになる。
どうしたって存在してしまう暴力性をせめて発動させないスタンスの落とし所としては、「恋愛してもいい」としてアイドルの精神と身体の拘束は望まず、「でも隠してね」と自らが享受すべきアイドルとの間のストーリーは守る、といったところだろうか。
さて非アイドルについてだが、その実質は基本的にアイドルであり、カノバレNGなのは明白だ。3号車リョウガが「ラブライブ!」*3にはまっていることをブログで公開したあとに発生した「ラブライブ他界」*4は、8号車の恋愛スキャンダルへの耐性のなさを物語っている。*5
彼らの精神と身体の拘束が「ヲタクと共有すべきストーリー」の中に組み入れられていることについては他のアイドル同様に悲哀を感じさせるが、彼らの成功とともにこのバランスが変わっていくことを願う。
消費対象としてのアイドルの悲哀 2 〜アイドルを包囲する暴力性〜 了
消費対象としてのアイドルの悲哀 1 〜未熟さを愛でるということの罪〜
本稿では一旦超特急から離れ、なぜ筆者が8号車になる以前からアイドル文化にネガティブな印象をいだいていたのか、またそのネガティブさの種類とはなんだったのかをつまびらかにしていきたい。
超特急がいくら声高に「非アイドル」をうたったとしても、実際の佇まいはアイドル然としていることに異論があるひとは多くないだろう。
「非アイドルとは何か」ということついて、8号車内でも議論が交わされることは少なくない。それについての筆者の回答は「非アイドル=メタアイドル」*1となるが、それはまた別の機会に譲る。
前置きが長くなったが、下にアイドル文化に感じていた(感じる)ネガティブさの要因を記す。
1.未熟さを愛でるということの罪
女子ドル戦国時代の最大手・AKBグループについてマスメディアで見聞きしない日はほとんどないと思うが、
以前、彼女たちの料理対決番組のPRと思われる広告展開にその魅力の打ち出し方の方向性をひしひしと感じられるものがあった。駅のスペースを使った大々的な展開で、AKBのメンバーが料理や調理器具とともに写った大きなポスターが貼られたり吊られたりしており、その大半が調理を失敗していたり困り顔をしているというものだった。
それは別に番組中の本当の困った顔や失敗風景を切り取ったものではない。わざわざポスター用に、正面を向いてかわいらしく困った顔を作ってみせて「失敗しちゃった」というような見せ方を選びとっているのである。結構な人数がフィーチャーされる中でほとんどが悪戦苦闘の様相を連想させる写真を使われていることに、アイドルというのは未熟さこそが歓迎され、応援したいと思わせることが重要事項の存在なのだと痛感した。
そもそもドルヲタは、アイドルたちが苦労を重ねて成長し、スターへと駆け上がっていくストーリーを共有することを醍醐味とする人種だ。そう言い切るのはやや軽卒かもしれないが、そういったきらいが大いにあるという点は否めない。だとしたら、なるほど未熟さや拙さは「応援したい」というヲタクの欲求をダイレクトに引き出すものとなる。アイドルを応援する醍醐味はアイドルたちの成長の歴史をヲタクたちが自身の「ヲタ活(ヲタク活動)」の中で体験的に共有するものであるから、未熟さを売りにしているアイドルほど伸び代があり応援のしがいもあるのだ。
また、潤沢にマーケティング費用を捻出できておりすでに商業的に成功しているグループは別だが、地下ドル現場〜ブレイク未満くらいのアイドルたちは個人の成長とは別に「成功=売れていく」ストーリーをより大きな目標として提供している。その意味でアイドル個々人の成長は裏テーマ、もしくはグループの成功ストーリーに必ず付随するエピソードにすぎないが、「推しメン」を決めてグループを応援するヲタクにとっては非常に重く高い価値を持つことを付け加えておく。
さて、未完成なものを愛で、その成長と成功を応援するという自然に見える流れは当たり前のようだがジレンマを生む。ヲタクが未熟で未完成なものを愛で、応援している一方、アイドルたちは普通の生活を営む10代などとは比べ物にならないスピードで成長し、成熟していく。若さや新鮮みは肉体的なそれ以上に早く消耗していくことだろう。
アイドルの成長や成功がヲタクの応援の大義名分であり、目指す方向であるにも関わらず、ヲタクは発展途上の伸びしろに熱を注いでいたいものなのでアイドルが成長・成功しきったあとにはそれまでと同じ熱量で追っていくことは難しくなる。
成長して、成功してほしい。だけどこのままでいてほしい。子の独り立ちを願いつつも、喪失感からどこか無意識的に(あるいは意識的に)それを妨げたい欲求を持つ親のようである。
ヲタクの大義名分がアイドルの応援である限り、「遠くに行かないでくれ」「売れるのがさみしい」というおそらくは非常に普遍的な(それゆえに子供っぽい)嘆きはおおっぴらには禁忌となる。芸能界に限らず、ビジネスの世界では需要のないものは消えてしまうものなのだからこの辺りの危機意識はアイドル側にとってより一層切実である。
【一年経つごとにでんぱ組の存在がどんどん遠くなっていって嫌いになってしまいそう。好きだけど遠すぎるのは悲しい。どうすればいいかな】
嫌いになって それできみが楽なら それでいいと思うよ。
売れなければ近くにいたのに なんて思わないでね。
売れなければ 消える。それだけだよ
遠い ではなく 居なくなる だよ
ぼくは前から言ってるけれど
近くに居たいから たくさんお仕事できるようにがんばろうって いまこうして活動してるよ。
それが遠いと感じて 悲しくなるくらいなら
あなたから こちらを消せばいいと思うんだ。
その方がきっと "楽"だよ。
ばっしばっし!!|でんぱ組.inc最上もがオフィシャルブログ「もがたんぺぺぺ」Powered by Ameba
話を戻そう。本稿の要旨は筆者が感じてきた「アイドル文化へのネガティブな思いはどんな要因からなるものか」である。
これまでに述べてきたように、未熟さを愛でながら応援するということは常にその対象に「未熟なままであってほしい」という、呪詛のような欲求を持つことと非常に近しいものがある。これらはアイドルの応援という大義名分に熱狂している間は表層意識に上がりにくく、またそれを表明することは限りなく抑圧されるため目を背けられがちだが、理性とは別のレベルで一般的なヲタクに少なからず働く感情だろう。
「未熟なままでいてほしい」(時にこれは「成功しすぎないでほしい」と重なるケースもある)という欲求は気付かぬうちに内面化され、もちろんその見えないコンセンサスを汲み取ったヲタクに届きやすいマーケティングはさらにそれを強化する。飛ぶように成長していく少年少女は、非言語メッセージによってどこかしらその制約を受けることになる。そしてそれは、特に女子ドルにおいて世のジェンダー的抑圧も相まって強い負担を強いることになる。またよく48グループで言われるように、アイドルに向けられるさまざまな理想の内面化が市井の女子にも適用されることにもなるだろう。特にドルヲタではなかった当時の筆者は、これについてフェミニズム的観点から腹立たしさに近い違和感を持ったのだ。(ジェンダー的抑圧の男女の負荷のバランスが均衡を取っていれば、それはフェミニズム的観点からの憤りではなくあくまで人間の権利を考える上での違和感になるだろう)
アイドル文化にあってよく聞く特徴的な言葉の一つが「消費する」である。ヲタ活はアイドルを消費することで成り立つ。この消費が意味するところは何なのか、非常に漠たるものなのだが、アイドルが駆け抜けるように成長する歴史を、責任から逃れた場所である意味身勝手に享受する意味が込められているのではないかと思う。純粋な「応援」だけでは表しづらいのがヲタ活だ。これがアイドルの未熟さに喜びを見出しがちなヲタクに付いて回る後ろ暗さの要因の一つだろう。
こそばゆいことを言うようだが、人間は本来、誰しも学び、体験し、成長していくものであり、その自由と権利は不可侵である。これに逆行する欲求とその供給が、48グループのような巨大なメディア力を持つアイドルにもヲタクにも、そして結果としてその影響力の大きさから市井の人々にも内面化されることについて自分は憤りを得たのだろうと思う。
しかし、前エントリで触れたように筆者自身もその未熟さや未完成さをフックに8号車になった一人である。本稿でさんざん述べてきた未熟さがもたらすさまざまな事象について、批判したいわけでもなければそもそもとやかく言える立場ではない。しかし、考えを変えたわけでもない。あくまで稚拙ではあるが考察のための素材を引き続き並べてみたいと思う。
「消費対象としてのアイドルの悲哀 1 〜未熟さを愛でるということの罪〜」 了
*1:筆者による造語
一ポリス新規から見た当時の超特急とその魅力
初現場
超特急の成り立ちやおおまかなメンバー構成は前エントリで触れたので、筆者が8号車になりたての頃、個人的にどう超特急を見ていたのかについて簡単に触れておきたい。
2013年初頭に向かった、彼らの3rdシングル「POLICEMEN」リリースイベントが筆者の初現場である。
もともとドルヲタでなかった自分は自身の酔狂さに呆れつつも、「完成されていない」そして「大人がつくった」悲哀のある少年たちの未知の世界に足を踏み入れることに、斜に構えた意味合いでの好奇心があったのだと思う。無為なことをする己を俯瞰して嘲笑するという悪癖が、自罰的な志向とマッチしてのスタートといえる。
ドルヲタをやったことのない自分が意を決して初現場を踏むためのハードルを下げた要因として、超特急の「シュールさ」が挙げられる。楽曲の世界観自体がどこか斜に構えたチープさとシュールさを持っているため、王道のキラキラアイドルにはまれない人間にも受け入れやすかった。またこれは初現場以降にわかることだが、楽曲の世界観はガチガチなのにライブやグループを全体でとらえると拍子抜けするほど余白が多く作り込みがなっていないことなどが、そのシュールさを助長していた。
初現場に話を戻そう。受験のためコーイチはイベント欠席、必死で地声を張り上げる苦しそうなタカシのボーカルと、ダンスの技巧レベルにばらつきのある少年たちが踊る姿にさらなるシュールさを感じつつ、冬の鈍色の景色と相まってなんとも言えない気持ちで全員握手(全握)に並んだ。寒風吹きすさぶ屋外イベントステージでペラペラの衣装のまま、血色の悪い顔で肩を縮こめながら一列に並んで震える彼らの様子はやけに痛々しく、余分なCDを買って接触を通し、彼らを「買う」ことへの罪悪感を掻き立てた。
この時期の接触は大変ゆるく、全握にも剥がしはいることにはいるが、十数秒から場合によっては数十秒の時間を取ってメンバーと喋ることができた。(4thのBloody Nightあたりからは全握の時間はより短くなったように思う)
初接触はとにかく早く終わりたい一心で、「応援してます」「がんばってください」を機械的に繰り返し、駆け抜けるような星になりたいよとばかりに逃げ切ったが、メンバーはみな顔を覗き込みながら「ありがとう。初めてですよね?また来てくれますか」などと紳士的な対応を見せてくれ、それが興味本位の申し訳なさに拍車をかけた。こういった類いの後ろ暗さも感情の動力源であることに違いはなく、彼らに惹かれていく動機付けとして充分すぎた。
特にこれで推しが決まるといったことはなかったが、初現場を経て彼らの未完成な部分といたいけないじらしさは覆されるどころか強く印象に残り、アイドルといったものに免疫のなかった自分に「次が見たい」と思わせるには充分だった。
また、接触がステージパフォーマンスの行き届かなさを補完するのではなく、行き届かなさや拙さが持つ「魅力」を強化したと感じられたのは、大きなポイントだった。列に並ぶヲタク全員に紳士的な対応をする中にも、特典会の始まりや終わりに大人の指示を仰ぐ所作や会話でのうろたえなど、彼らの未完成さや素の少年性が見え隠れしていた。この未熟さや未完成さを「魅力」と感じることについての悲喜こもごもはいずれ別項にて触れたい。
「放っておけない」
接触の話からはやや離れるが、この未完成さというのは決して彼らの生物的若さやパフォーマンスの技巧の未熟さだけから発せられていたものではない。
後に彼ら自身が過去を振り返りエビ本*1で「事務所にやらされていた」「部活の延長」といった旨の発言をしていることからも、ある一定の時期にまでちらついていた不安定さには、活動自体へのやる気の高低や志向の違いなどからの影響が多分にあったものと思われる。簡単に言えば、ライブにかける個々の熱量、特典会での態度、インタビュー等での超特急についての抱負を語るよりも先に出る「個人仕事をがんばりたい」旨の発言など、とにかく向いている方向がばらばらなのが伝わってきていた。
当時はダンサーにインカムもついておらず、またボーカルからマイクが渡されることもほとんどなかったため、MCのたびにコーイチとタカシの二人が微妙に噛み合ない話をして客席が気を利かせてややウケする、といったシーンが繰り返された。二人が喋っている間、時折頷いたりするメンバーはいたものの基本的にダンサーは会話に入ってくることがなく、茶々を入れたりガヤとしての笑いに参加することもほとんどなかったと記憶している。前述のエビ本での後の彼らの振り返りを読むに、彼らの仲間としての結束や気やすさが希薄だったためと思われる。
成長途上のグループの危うさはスリリングで、この時期くらいまでにファンになった者の多くはどこか保護的な視点を持っていた。それがおこがましく厚かましいおせっかいであることは否めないが、またそれを抱かせる状況であったことも同じく否めない。
古参からは、1stや2ndのあたりなどではメンバーがヲタクに「僕たちどうしたらいいんでしょう」などと活動上のアドバイスを求めていたなどと聞く。そして実際に、パフォーマンスのいろいろな面においてヲタクの発案が具体化されていった。超特急は良くも悪くも「放っておけない」グループだったのだ。
さて、彼らはいまやあの頃とは段違いの実力を身に付け、仲間内の結束やキャラクターの確立性も充分、言葉は良くないが商品価値を増してメディアにも多く進出し始めた。しかし、先述した危うさ、まさに「放っておけない」感じに惹かれて8号車となった一人である自分は、今の彼らがその場にいたとしたらドはまりはしなかっただろう。
筆者はこれまで消費対象としてのアイドルについて、どちらかといえばネガティブな見解を持っていた。
誤解なきように言っておくがこれはアイドルを否定するといった主旨のネガティブさではない。さらに、そのネガティブな見解について超特急がすべてを拭ってくれて、いまやなんの気兼ねもなくアイドル文化に小銭を投じられるようになったというわけでもない。次のエントリでは、自身が抱えているネガティブな印象がいったい何だったのか(何なのか)について触れてみたい。
*1:EBiDAN vol.1-2013年12月発行
超特急とメンバーについての極私的紹介
超特急とは?
ある程度一般的な説明は下記の通りwikipediaに譲るが、以下に補足をする。
超特急(ちょうとっきゅう)は、日本の音楽グループ、EBiDANの選抜ユニットである。スターダストプロモーション所属[1][2]。メインダンサーバックヴォーカルグループ[3]。5人いるメインダンサーから、シングルごとにセンターを務めるダンサーが変わるのが特徴。「ももいろクローバーZの遺伝子を継承した男性グループ」として注目されている。
超特急は芸能事務所大手スターダストプロモーション(以下、スタダ)所属の7人の男性グループである。二人が歌をメインに担当し五人がダンサーに徹するという構成で、基本的にアイドルグループにカテゴライズされることに問題はないかと思うが、おそらくは大人の事情*1が加味されたのか「非アイドル」を名乗る。
もともとスタダは俳優業に強い事務所であったが、ももクロ(2008年結成)の成功を機にアイドルビジネスに本格的な注力を始め、2010年に男子グループ結成の素地となるEBiDAN(以下、エビダン)のオーディションを開始。エビダンは有り体に言うならば、ジャニーズにおけるジャニーズJr.的な立ち位置のボーイズ集団である。その中からの選抜ユニットがDISH//と超特急であり、本ブログは後者について論じる。また、余談にはなるがももクロの高城れにが「妹分や弟分は認めていない」旨の発言をしたとして話題になった。*2
メンバー紹介
各メンバーはユニット名「超特急」にちなんで年齢順に1号車から7号車を担当しており、またそれとは別にキャラクター付けとも呼べる役割を担っている。(ヲタク=ファンが8号車である)
以下、基本的情報はwikipediaより抜粋。
メンバー[編集]
号車 | 名前 | 本名 | 担当 | 生年月日 | 出身地 | イメージカラー |
---|---|---|---|---|---|---|
1号車 | コーイチ | 吉野 晃一 よしの こういち |
BACK VOCAL お父さん担当 |
1994年6月18日 (21歳) |
奈良県 | 黒 |
2号車 | カイ | 小笠原 海 おがさわら かい |
MAIN DANCER 神秘担当 |
1994年9月27日 (20歳) |
神奈川県 | 青 |
3号車 | リョウガ | 船津 稜雅 ふなつ りょうが |
MAIN DANCER ガリガリ担当 リーダー |
1994年10月23日 (20歳) |
神奈川県 | 紫 |
4号車 | タクヤ | 草川 拓弥 くさかわ たくや |
MAIN DANCER 筋肉担当 |
1994年11月24日 (20歳) |
東京都 | 緑 |
5号車 | ユーキ | 村田 祐基 むらた ゆうき |
MAIN DANCER ドジっ子担当 元リーダー |
1995年1月2日 (20歳) |
徳島県 | 赤 |
6号車 | ユースケ | 福田 佑亮 ふくだ ゆうすけ |
MAIN DANCER 元気担当 |
1995年12月24日 (19歳) |
神奈川県 | 黄色 |
7号車 | タカシ | 松尾 太陽 まつお たかし |
BACK VOCAL 末っ子担当 |
1996年9月23日 (18歳) |
大阪府 | 純白 |
以下、私的補足を記す。*3
1.コーイチ
メンバーにおける年上組と同じ生まれの94年ラインだが、年長に見られる風体と生まれ月がもっとも早いことから「お父さん担当」を担う。現在は明るく饒舌なキャラクターが前面に押し出されているが、初期はブログや特典会などでナイーブで波のある性格が露呈することが多かった。
最初の大学受験では志望校に受からず、超特急としての活動が忙しくなっていく中、浪人を経験。努力の末、現在、超特急唯一の現役大学生。歌唱やダンスパフォーマンスの癖は強いものの技巧は確かで、超特急結成当初はコーイチの実力に頼りきりだったと後にスタダの運営である理事長(藤下リョウジ氏)がツイートしている。*4
2.カイ
戦隊もののクールなブレインのイメージカラー青を担う通り、頭脳明晰な切れ者。彼らの初看板番組である「超×D」での台詞を暗記して芝居をする企画や、外部番組で某私鉄の駅名を短時間で暗記しそらんじる企画などでも記憶力の良さを発揮した。
その記憶力は特典会でも活かされており、高速の握手やハイタッチでもヲタクの名前を呼ぶことが他メンよりも多い。ファンサービスについても評価が高く、ブログ更新もまめである。自撮りやMCでのちょっとした仕草や振る舞いなど、自分をかわいく見せるアイドルには必須の技術にも長けているが、ややナルシスティックな部分はご愛嬌。
3.リョウガ
現リーダー。消極的かつ引っ込み思案で、初期はよく現場でなんらかの物音がするとそちらを見てびくっと身を縮こめるなどやや心もとなげな佇まいが印象的だったが、ニュースサイトナタリーでは7thシングル「Believe×Believe」を経て「僕は今までグループを引っ張っていくリーダーじゃなく、支えるリーダーになるようにしてたんですけど、ツアーのときくらいは引っ張りたいなあと思ってて」と発言。自身の二回に及ぶセンターの経験や超特急の加速とともにリーダーとしての自覚と力を養っていったと思われる。
2014年に行われた彼の生誕祭では各メンバーからその柔和で温かな人柄について絶賛されていた。
4.タクヤ
筋肉担当を推されているが、自身センターの2nd「Shake Body」のフレーズ「Beauty」がしっくりくる美貌のメンバー。化粧水を塗ったりボディクリームを塗ったりすることを明かしており、他のビジュメンとは一線を画する美意識の持ち主。特典会では彼自身の機嫌が出ることも多く塩対応と言われがちだが、過去にブログで認知を求めるヲタクが「傷つかないように」釘を刺す発言をするなど、ある意味ヲタクへの優しさと誠実さ、男気が垣間見えるエピソードであると個人的には思う。*5
おしゃれ番長として8号車やメンバー内でも一目置かれている。またBIGBANGのG-DRAGONに感化されたコーディネートや髪型をすること(していたこと)もある。
5.ユーキ
旧リーダー。2013年8月8日の「BULLET TRAIN FANMEETING Vol.05 〜クエストホールでみんなの笑顔をリークエスト!!〜」にてリーダーを3号車リョウガに引き継ぐも、「…リーダー名誉にあずかる」の口上のフレーズがプリントされた初代カチューシャの発売日だった。8号車からは現在もダンスリーダー的ポジションと認識されていることが多く、細部の表現にまで気配りのある華麗なダンスは彼の一番の武器。
現在は改善されているものの、初期ブログでは誤字脱字、また個性的な言い回しが多かった。本人も言語表現に苦手意識があるのか「言いたいことをうまく伝えられない」旨を各所で発言しているが、超特急にかける気持ちの熱さは8号車にはきちんと伝わっているものと思う。
6.ユースケ
元気担当という役回りとは裏腹に涙を見せることが多く、弟妹思いの生真面目で純粋な性格。「超×D」のアンケート企画では「芸能人に向いてない」という項目でスタッフ&メンバーから1位に選ばれてしまい涙するという事件があったが、主にその純粋さや良い子っぷりがその理由として上げられていた。自身のダンスの力量を叱咤するシーンも見られ、初センターとなった「Flush Back」初披露の池袋サインシャインシティ噴水広場でのライブでは思うように踊れなかったことから踊りながら泣いていたなど自分に厳しい面がある。
また、2号車カイ同様ブログ更新率が高く、特典会でのファンサービスにも定評がある。
7.タカシ
誰もが認める端正なルックスと長身に恵まれ、またメンバー間でも「いつもやさしい」と評される末っ子メンバー。8号車内ではまずタカシの美しさや物腰の柔らかさに惹かれて超特急のヲタクになったという者も多い。普遍的で正統派の魅力があるが、最年少ながら言葉選びのセンスや言い回し、またサザン好きを公言するなどやや昭和めいたところがある。
丁寧な読み物調のブログでは毎度8号車への感謝と愛を綴っており、「自分と8号車は同じ大空を通して繋がっている」といった主旨の発言から生まれた「空見てみ?」は彼の発明とも言うべきキラーフレーズである。*6ボーカル、ダンスの実力ともに初期の心もとなさが払拭され、その努力を形にしていっている。
*1:某大手事務所からの圧力避けなどか
*2:
ももクロ高城れに「妹分や弟分は一切認めていません」 | ニュースウォーカー
*3:断定口調での記載となっていますが、エクスキューズを繰り返していたら先に進めませんのでご理解ください
*4:
*5:
\タクヤでーす/|超特急オフィシャルブログ「Rail~夢への切符~」Powered by Ameba
*6:大真面目に言っていますからね。
はじめに
当ブログについて
超特急現場に通うヲタク(8号車)が、超特急やメンバー、そしてヲタクたちについて好き勝手に考察を巡らせるブログです。
現場やメディアを通して得られる、個人的な引っかかりを感じたエピソードを抽出して論考の糧としていくこと、そこに個人的体験が加味されること、また反証可能性のない内容であることから、いかに中立性を重んじようとしても結果として恣意的にならざるをえません。
その意味では考察という言葉のおこがましさを思わないではありませんが、
あくまで個人ブログの一個人の見解であるという前提ありきでご笑覧いただければ幸いです。
おそらく世界中の人たちのすべてがそうであるように、
彼らが多面的で、そして成長し変化を遂げている最中の人間であるということをありがたく拝察しての執筆を心がけています。*1
*1:ただし表現には癖があります。